その1では国家試験の苦い想い出を綴ってみましたが、高校時代には無線部があったのにも関わらず、オーディオに興味が移ってしまい、専らカセットデッキでFMエアチェックを楽しむ毎日を送っていました。 本当は「オープンリールデッキ」が欲しかったのですが、高価なデッキは垂涎の的。入手は叶いませんでした。
屈辱の国家試験遅刻不合格からいつの間にか約15年が経過し、「アマチュア無線家のタマゴ」は、「オーディオ小僧」を経て、何とか職にも就き、「嫁さんがなかなか来てくれない農家の長男」になり、先行きの事など眼中にも無いように、自分専用のクルマを手に入れ、旅行やらスキーやらに出かけ初めておりました。
何の因果か、20歳代後半になって「山登り」に目覚めてしまいました。
キャンプ道具や登山用品やらを一揃い以上そろえてしまう物欲の強さと収集癖は現在でも健在です。なにせ、その物欲のおかげで、現在のシャックが存在するのですから。。。
さて、本題。農家の長男が登山単独行を行うには、やはり少なからぬリスクが伴います。そうです。「遭難」という最悪事態のリスクヘッジを考慮しないわけには行きません。
同時期に高校時代の友人と冬の期間はスキーに出かけたりし始めたため、当時流行った「私をスキーに連れてって」の影響をもおそらく受けたのでしょう、「アマチュア無線の免許を取ろう」という決心に至りました。
まだ、大きな書店に行けばハム用の受験参考書は売られていた時期ということもあって、1988年(昭和63年)の11月に東京晴海で電話級アマチュア無線技士の試験を受けました。
密かに、「蒲田の日本電子工学院で今度こそリベンジか?」という思いもあったのですが、既に試験は「日本無線協会」の管轄下にありました。(実はどうだったのか覚えていません・・・)
もうはっきりとは覚えておりませんが、晴海の試験会場も、今の江間忠ビルとは違っていたような曖昧な記憶があるのですがね。(バスに乗って行ったような気がします)
確か、試験結果は即日結果発表だったと思います。以前よりは確実に易しくなった(と思われる)試験問題のおかげか今度は無事合格し、免許申請をして帰途につきました。
帰り道は我慢できずに、秋葉原に寄り道して、スタンダードのC112「ポケクロ」(144MHzハンディー機)を「ロケット」で購入して帰りました。当時のロケットは昌平橋近くで6フロアくらいの全階がアマチュア無線製品・用品で占められており、現在とは規模が違ってました。2階か3階か4階か忘れましたが、HF機器のフロアーには畏れ多くて近づけませんでしたね。
申請からしばらくして従事者免許が到着しましたが、パスポートのような見開き形から、パウチっこに変更されており、少々ガッカリ。従来形式の方が仰々しくて国家資格らしかったのですが。
ま、時代の流れというやつでしょう。携帯にはパウチっこの方が便利ですのでね。
局免申請も無事済ませ、ほどなく到着した免許状には当局の識別符号が目出度く記されていました。
「JQ1KRT」
・・・。 KRTか、パッとしないコールだな・・・。うまい語呂合わせも思いつかんし。。。 キット(K)・ロクニ(R)・ツヅカナイ(T)かい? 縁起でもない。
もっとカッチョ良いコールだったら良かったのにな~。
と、無い物ねだりの小生はワガママなことを考えますが、お上のなさることですから仕方ありません。
以降430MHzのハンディー機・FMモービル機等の増強も行い、自宅屋根には2mのGPアンテナ(X200)を設置。登山にスキーに、自宅からのラグチューにと、しばし無線の楽しさに没頭の時期を迎えます。
なかなかCQに踏み切れなかったのは現在と同じです。
専ら、山頂からのCQで数局とQSOするのが山登りの際のひとつの楽しみとなっていました。
スキー場ではヘッドセットで、仲間の連絡係を買って出て、自己満足に浸っていました。
そんな時期も残念ながら長続きしません。
開局から3年くらい経ったでしょうか?孤独な農家の長男にもいよいよ人生の転機が訪れます。
楽園か墓場かの2者択一。そうです 「結婚」 です。
以降はまた別の機会に。
(注:当局が局免取得後、時を経ずしてJx1コールは枯渇し、7K1コールの割り当てが開始となりました)